コラム

2023/04/04 コラム

J.S.Bach マタイ受難曲

 今年も受難曲のシーズンがやって来ました。日本でも定着しつつあるイースター「復活祭」ですが、これはイエス・キリストの復活を祝うキリスト教の行事です。「復活」があるからには「死」があったわけで、キリストの処刑による死すなわち「受難」を悼む「受難節」がイースター前にあります。「受難曲」がこの時期にはよく演奏されるもので、その代表的な名作、バッハの「マタイ受難曲」は、クラシック音楽を愛好する私が、最も愛聴する1曲です。

 1曲、といっても全部聴くには3時間はかかります。「福音史家」(エヴァンゲリスト)が独特の奏法で物語を語り、イエス、弟子達、裏切り者のユダ、イエスを捉える大祭司や長老達、それに従う民衆、処刑の権限を持つローマ総督ピラト、イエスの守護天使「シオンの娘」、善良な信者の心情を代弁する「信ずる者達」といった役の歌い手達が、処刑・埋葬までの出来事を「歌による朗読劇」という調子で歌い上げていきます。中学生の時、合唱をやっていた私は、バッハ生誕300周年記念ということで、この「マタイ受難曲」の終曲だけ合唱することになったのですが、その静謐にして壮大な音楽にすっかり魅了され、ダイジェスト版CDから少しずつこの曲を聴き進め、大学生になるまでには全曲を理解して鑑賞するようになりました。

 職業的な観点でいえば、この曲は「裁判」をテーマにしている点で、興味深いところです。当時のユダヤ教における裁判のルールとしては、有罪にするには証人が2人以上いないといけないということで、イエスが、ユダヤ教の神を冒涜する発言をした、という証言をする者が2名登場します。不安定な音程で作曲されたその2名の歌唱、それでも同じ音程を保ちながら二重唱で証言をしますが、最後の音でぽろっと2人の音がくい違う…と、音楽で、これが口裏合わせによる偽証なのだということを表現するわけです。「裁判」を音楽で表現する、というのは大変興味深い。しかもそれが最上級の芸術になっているわけですから。

 刺すような糾弾を受けながら、「処刑されることが神の意志だから」ということでじっと耐えて沈黙するイエス。本当はイエスは無罪なのだろう、と思いながら、反イエス派の民衆達の暴動を恐れて「お前達が望むから処刑するが、私の責任ではないぞ」と言い放つローマ総督ピラト、処刑に向かうイエスを罵りあざける民衆…私が裁判で法廷にいるときに、自分の側の証人や被告人が、意地の悪い質問を受けているとき、「無罪になって欲しい」と心から思うような事件で空疎な有罪判決を受けたとき、自分が担当している事件についてSNSで中傷誹謗が飛び交っていることを知った時などには、「うーん、人間の裁判って、聖書の時代から変わらないんだな」と思いながら、頭の中で「マタイ受難曲」を演奏しています。

 聖なる題材の聖なる音楽、のはずなのですが、日々の卑近な悔しさやイライラにしっかり寄り添ってくれる、すてきな曲です。

(上野奈央子)

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