土地の売り主が認知症であることが判明し、売買契約の決済ができない場合
一 私の息子は、現在レストランを経営する会社に勤務していますが、かねてより脱サラしてレストランを経営しようと考えてきました。そのため市内の交通量の多い幹線道路に面した、広さ500平方メートルほどの宅地を探していました。そこで、不動産業者に適当な物件の仲介を頼んでいたところ、条件に合う甲さん所有の土地を紹介されました。そこで、業者を通じ甲さんと会い、甲さんがこの土地を確実に売ってくれることを確認しましたので、売買契約を締結し手付けの支払いもすませました。
二 私は息子と一緒になって購入資金の手当をしたりし、息子は地形に合わせた建物の造りの検討や、設計事務所への依頼と打ち合わせをはじめました。勤務先には退職予定を告げるなど、開業に向けての様々な作業に入りました。
三 そして、いよいよ代金決済と移転登記手続きの直前になって、不動産業者から甲さんが高齢のため、やや痴呆症状が出てきたと告げられました。
私や息子としては、売買契約は甲さんが全く問題ないときに締結しているのですから、契約は有効に成立しており、甲さんが後に痴呆になろうが何ら支障はないと思っていたところ、不動産業者から突然「登記手続きを依頼する司法書士事務所から、登記手続きの時に売主が痴呆になっていては手続きはできないと言われているので決済が遅れる。」と伝えてきました。
四 息子の計画はストップしてしまい、全ての事柄が大幅に遅れることになりました。息子は納得できないと言い、私も信じられない思いです。息子はどうしたら早く売買契約の決済を済ませることが出来るでしょうか。また、開業の遅れについて甲さんに何らかの損害賠償請求ができるでしょうか。
一 売買契約時には正常な判断能力があり契約締結をすることが出来た人が、履行時までに痴呆状態になるというのは、一般的にはあり得ないことなので、貴方や息子さんには不運なことと思います。
二 現在登記手続きを代理する司法書士や司法書士事務所では、登記手続きを受任する際に当事者本人に面接して、本人確認と委任内容の意思確認をすることが厳格に求められています(犯罪による収益の移転防止に関する法律2条2項40号、4条)。これを怠って後に問題が生じたときは厳しい制裁が課されます。
これは本人になりすました偽の依頼人による依頼に、かつて一部の専門家が、十分な本人確認や依頼内容の確認及び調査をせず、各種手続きをしていたため、後になって勝手に個人の名義を使われて被害に遭った被害者が、被害回復をしようとしても被害回復が困難であったり、更にはおもわぬ方向に被害が拡大したりして問題となっていたことから、様々な手続きはすべてについてその受任段階から専門家に対し、依頼人に関する本人確認と取引内容について意思確認を義務として課すことにより、問題の発生を防ごうとの政策から定められたものなのです。
三 従って、お尋ねの場合このままでは登記手続きは出来ません。至急に不動産業者を通じてでも直接にでも、甲さんの身内の方即ち配偶者か子どもさんに申し入れをして、甲さんの痴呆の程度に応じて成年後見人あるいは保佐人を選任してもらうよう働きかけ、選任された後見人か保佐人と代金決済と登記手続きを済ますということになります。
四 成年後見人や保佐人の選任は、家庭裁判所で決定する事項ですので、甲さんの親族が、先ず家庭裁判所に相談に行くと良いでしょう。家庭裁判所では申し立てに必要な書類の用紙や手続きについて親切に教えてくれますので、特に法律の専門家でなくとも辛抱強く手続きを進めていけば成年後見人や保佐人の決定をしてもらうことは可能です。しかし、いずれにしても家庭裁判所の決定が出されるまでには早くても2カ月はかかると予想されます。
五 なお、息子さんから甲さんへの損害賠償請求の可否についてのお尋ねですが、これは契約書にどのように書かれているかによって結論が変わります。契約書に契約の決済手続きが甲さんの事由により遅れたときには相手方に対し一日につき何円の損害金を支払うと記載されていれば、息子さんは遅延した日数の損害金を要求できます。
しかし、損害金について何ら記載のないときは要求は難しいと考えられます。甲さんとしてもまさか自分が痴呆になるとは予想していなかったでしょうし、貴方の息子さんの事業内容の予測もしていなかったと考えられるからです。貴方や息子さんとしては甲さんの身内に一日も早く成年後見人か保佐人の選任をしてもらい、契約を決済してくれと要求するしかありません。
弁護士 塩味 達次郎